大正奥四万十区域

大正奥四万十区域マップ



四万十川の清流の源である森林とそれを守り育てるとともに伝統文化を伝承してきた山村集落の景観地

 本区域は、四万十川の第一支流である梼原川の下流域にあたる。梼原川のうち下津井から四万十川との合流点までの四万十町を流れる約28kmの区間と、その支流である中津川の全区間、及びそれらの河川から一番近い山の第一稜線までの区域と国有林を含む。
 梼原川は、四万十川と同じく穿入蛇行を繰り返すが、四万十川に比べて川幅が非常に狭く、流れも急で、周囲の大半が山間地であるため、まとまった耕地が少なく、急峻な山地を切り開いた棚田や段々畑で耕作するとともに林業に生業を求めてきた地域である。梼原川流域の林業活動は田野々以奥で明治期から昭和期にかけて活発に行われたが、明治17年四国には営林局の前身である愛媛・高知の大林区署の田野々派出所が新設され、北幡地方における近代林業の最初の拠点となった。それは幡多地方にあってこの大正奥四万十区域に最も国有林が集中していたことに加え、四万十川と梼原川が合流する地形であったため下田港への伐木の水運による大量搬出に適していたことによるものである。
 こうして発展した地区のひとつに大正中津川地区がある。江戸時代には、土佐第一の産物は木材で、四万十町奥地の山林の大部分を藩の御留山としたが、大正中津川地区の住民も管理・伐採・搬出という重要な役割を担っていた。また、耕地の少ない山村地域では、林産物生産が生活を支える重要な生活基盤であったが、藩有林として厳重な管理下にあった山林資源を自由に利用することはできず、寛文4年に布告された「山林諸木竝竹定」をはじめとする規制によって私有林の伐採や焼畑等も制限された。
 このように、森林資源を確保するために住民の生活をも厳しく規制していることが、藩にとって材木がいかに重要なものであったかを物語っており、その中で、住民は苦難に耐えながら森林を守り育ててきたのである。
 厳しい生活を強いられた様子は、この集落にあった国指定重要文化財・旧竹内家住宅に見ることができる。
 藩政時代から続けられた木材の伐採・搬出は明治以降になると、いっそう盛んに行われた。大正中津川地区には四万十川流域においてもっとも早く森林軌道が施設されて木材の大量搬出が可能となり、その後も大正から昭和期には営林署の事業所も置かれ積極的な国有林事業が展開された。四国森林管理局(高知営林局)が長期にわたって黒字経営を続けられたのも、この流域が豊かな森林資源に恵まれていたことと、それを住民が良好に維持管理してきたことによる。
 こうした森林資源を維持管理し、利用してきた足跡は現在、森林軌道跡の道路や橋梁、日本最古の複層林の一つである「奥大道自然観察教育林」として残る。また地域の暮らしを支えてきた根源として、「久木ノ森山風景林」の天然林が残る。
 大正奥四万十区域は、住民により維持され活用されてきた四万十川の水源である山林と、活発な国有林事業が展開されて戦後の復興や日本の高度成長を支えた国有林事業の痕跡を残し、今も地域では「四万十桧」を産出して積極的な林業が行われている。このような山村集落の様相は、四万十川流域の文化的景観を理解する上で、欠くことのできない景観地である。

PAGE TOP

大正奥四万十区域 四万十川中流区域 高南台地区域