天保8(1837)年、医師・儒学者だった父・景井、母伊久の間に生まれる。
申太郎少年が泳いだ吉見川は四万十川へ注がれる。
13歳で元服を迎え、名前を「詩経」の次の一節から取り「干城」とした。
23歳の干城は、江戸へ出て、のちに人生の師と仰ぐ「安井息軒」に学ぶ。
修行が終わり帰国後、文武館助教となった。文久元(1861)年、帰国の途中に出会った武市半平太と会見し、尊王攘夷運動に傾倒していくことになる。
しかし、30歳の時の長崎視察の際に出会った坂本龍馬・後藤象二郎と交わり、幕府が問題の本質であると悟り、目標を討幕へと転換する。
翌年の慶応3(1867)年には中岡慎太郎の仲介により薩摩藩士・小松帯刀邸にて、干城は土佐藩の乾退助(後の板垣退助)・毛利恭助らと、薩摩藩の西郷隆盛・吉井幸輔(友実)らと会談し、乾は「戦となれば、藩論の如何に関わらず、必ず藩兵を率いて薩摩藩に合流する」とその決意を語り、薩土討幕の密約(薩土密約)を結んだ。
様々な出会いが彼を変えていく。
鹿児島の私塾に集まった士族が
西郷隆盛を推し挙兵。
京、江戸を目指す。
西郷軍の邀撃に動くため、当時、情勢不安定だった九州を安定させる役割で派遣されていた谷干城が熊本城で反乱軍を迎え撃った。
この戦いが雌雄を決する最大の前哨戦とされた。兵力差は歴然だったが大方の予想に反し、干城率いる政府軍は五十余日に寄る籠城により勝利をおさめる。
西南戦争の勝利終結により、干城は陸軍内における揺るぎない信望を得る。民間でもその知名度は熊本城英雄として大臣にも匹敵されるものとなり、政府首脳の評価を高めた。
明治10(1877)年に現在の熊本県・宮崎県・大分県・鹿児島県において、西郷隆盛を盟主にして起こった士族による武力反乱である。
明治初期に起こった一連の士族反乱の中でも最大規模のもので、現在日本国内で最後の内戦である。
西南戦争での功績なども有り、日本における重鎮となっていった干城。
明治17(1884)年には学習院院長に就任し、子爵を授けられている。明治18(1885)年、第一次伊藤博文内閣で初代農商務大臣に抜擢。在任中の欧米視察では、欧州の実情や行政の実学を学び、帰国後は欧米をまねる外交政策や農民への酷税などの見直しを求めた。
帝国議会開設後は、貴族院議員として、国民の困苦を顧みない政策や日露戦争など、国を危うくする戦争などに反対。論客として政界・言論界に影響を与え続けた。
中央に谷干城、右端が玖満子
谷玖満子(くま子)
土佐藩士 国澤七郎右衛門通辰の次女
文久2(1862)年谷干城と結婚(19歳の頃)
妻として家事や身の回りの世話だけでなく、時には干城の行動に大きな影響をも及ぼす良き相談相手にもなった。
夫の信念を理解し、叱咤激励する最大の同志とも言える存在。
西南戦争時、危険が予想される熊本城籠城の際に干城は玖満子を東京へ帰そうとするが、玖満子はこれを聞き入れず夫に付いていった。
籠城作戦における兵糧の欠乏に陥ると、雑草でおひたしを作り、時には兵卒用の足袋を仕立てるなどして干城と兵卒たちを支えた。
学習院長時代や議員時代も干城は、玖満子の意見をよく聞き入れ、自分の進退を決めたと言われる。
干城を陰ながら支え、時にはその行動で活躍を後押しした玖満子はまさに土佐のはちきん(男勝りの女性を指す土佐弁)であったことだろう。
谷干城の故郷である四万十町では毎年、谷の生涯を町民が街頭ミュージカルとして披露する「谷干城ミュージカル」が行われている。
このミュージカルは平成12年に地元商店街の活性化と町民への谷干城の認知を目的に始まった。驚くべきはこれが町内の演劇経験もない素人が集まりつくり上げてきたミュージカルであるということ。にも拘らず、さらに驚かされるのが、それぞれの演者の素人とは思えない演技と歌のレベルの高さである。
公演も回を重ね18回、つまり18年続くミュージカルを町民の手で継承してきている。年齢も職業もキャリアも違う町民達が、郷土の偉人を知って欲しいという強い想いを胸に一つになり披露するミュージカルは谷干城が残した数々の功績をさらに強く輝かせている。
2012年から谷干城を演じています。三代目に指名された時には正直驚きましたし不安も有りました。でもその時にはもうやるしかない!という気持ちだけでしたね。もちろん二代目の谷干城の演技やキャラクターも見てきているので、
いかに自分の中の谷干城を表現するか。どうやったらミュージカルを通してこの人物を皆が知ってくれるか。そんなことを考えながら三代目谷干城として頑張っています。
西村 秀次街頭ミュージカルとして、毎年、四万十町内で公演をしています。生バンドとの融合やその時々の時勢をネタにしたユニークな脚本がこのミュージカルの特徴なんです。シナリオ的に変化をつけることで、史実に基づきながらも楽しく見ることが
できるのではないかなと思います。ご覧頂くことで沢山の人に谷干城の生きた時代を感じてもらえれば嬉しいですね。
田村 眞則今の劇団の中なら私が最古参になると思います。私自身、谷干城を知るきっかけがこのミュージカルでした。初回の公演から好評を頂き、もう公演数も18回を数えます。最初は四万十町の町民に郷土の偉人を知ってもらおうと始めましたが、
今は、高知県はもちろん全国の方にこのミュージカルで谷干城という人物を知ってほしいと思っています。素人集団がつくる最高のミュージカルでそれを叶えたいですね。
山岡 義正谷干城の生涯 | 日本の動き | |
天保6年(1835) | 坂本龍馬誕生 | |
天保8年(1837) |
土佐国高岡郡窪川村(現・四万十町)に誕生。 父は景井、母は伊久。幼名は「申太郎」 |
大塩平八郎の乱 |
弘化3年(1846) |
父・景井が土佐藩の上士(小姓組格)として 取り立てられ、共に高知城下へ移住。 |
|
嘉永2年(1849) | 元服、名を干城と改める。 | |
嘉永6年(1853) | ペリー、浦賀に来航 | |
嘉永7年(1854) | 日米和親条約締結 | |
安政5年(1858) | 日米修好通商条約締結 安政の大獄 |
|
安政6年(1859) | 江戸に出て安井息軒の門に入る。 | |
安政7年(1860) | 桜田門外の変 | |
文久元年(1861) | 規藩の途中、大坂で武市半平太と会談。 尊皇攘夷に傾倒する。 |
|
文久2年(1862) | くま子と結婚。文武館史学助教となる。 | |
慶応2年(1866) | 長崎出張を命じられ、 後藤象二郎、坂本龍馬と面会。 その後上海へも渡米。 龍馬らとの出会いにより、 目標が攘夷から倒幕へと転換していく。 |
|
慶応3年(1867) | 京都にて中岡慎太郎(土佐)、乾退助(土佐)、 小松帯刀(薩摩)、西郷隆盛(薩摩)らと 薩土の連盟を密約。同年、近江屋事件で 坂本龍馬と中岡慎太郎が暗殺される。 中岡から事件の詳細を聞き取る。 |
大政奉還 王政復古の大号令 |
谷干城の生涯 | 日本の動き | |
明治元年(1868) |
戊辰戦争で板垣退助率いる迅衝隊の 大軍監として北関東・会津戦争で活躍。 |
五箇条の御誓文 |
明治3年(1870) | 高知藩小参事に任ぜられる。 | 大塩平八郎の乱 |
明治4年(1871) | 朝廷に招かれ兵部権大丞に任ぜられる。 | 廃藩置県 |
明治5年(1872) | 陸軍少佐に任ぜられる。 | |
明治6年(1873) | 熊本鎮台司令長官を仰せ付けられる。 | |
明治7年(1874) | 佐賀の乱を鎮定後、台湾へ出兵。 | |
明治8年(1875) | 熊本鎮台司令長官辞職。 | |
明治9年(1876) | 熊本鎮台司令長官再任。 | 神風連の乱 |
明治10年(1877) | 西郷軍を相手に熊本城を死守し、 政府軍の勝利に貢献。 |
西南戦争 |
明治17年(1884) | 学習院院長に就任。子爵を授けられる。 | |
明治18年(1885) | 第一次伊藤博文内閣の農商務大臣に任命される。 | |
明治19年(1886) | 欧米巡視に出発。 | |
明治20年(1887) | 条約改正に反対し農商務大臣を辞任。 | |
明治22年(1889) | 大日本帝国憲法発布 | |
明治23年(1890) | 貴族院子爵議員に当選。 | |
明治27年(1894) | 日清戦争 | |
明治28年(1895) | 下関条約調印 | |
明治30年(1897) | 足尾鉱毒事件につき善処を進言。 | |
明治37年(1904) | 日英同盟反対論・日露非戦論を主張。 | 日露戦争 |
明治42年(1909) | 妻・くま子没す。 | 伊藤博文暗殺 |
明治44年(1911) | 東京の自宅にて没す。 故郷高知の久万山に埋葬。 |
谷干城の生涯 | 日本の動き | |
天保6年(1835) | 坂本龍馬誕生 | |
天保8年(1837) |
土佐国高岡郡窪川村(現・四万十町)に誕生。 父は景井、母は伊久。幼名は「申太郎」 |
大塩平八郎の乱 |
弘化3年(1846) |
父・景井が土佐藩の上士(小姓組格)として 取り立てられ、共に高知城下へ移住。 |
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嘉永2年(1849) | 元服、名を干城と改める。 | |
嘉永6年(1853) | ペリー、浦賀に来航 | |
嘉永7年(1854) | 日米和親条約締結 | |
安政5年(1858) | 日米修好通商条約締結 安政の大獄 |
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安政6年(1859) | 江戸に出て安井息軒の門に入る。 | |
安政7年(1860) | 桜田門外の変 | |
文久元年(1861) | 規藩の途中、大坂で武市半平太と会談。 尊皇攘夷に傾倒する。 |
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文久2年(1862) | くま子と結婚。文武館史学助教となる。 | |
慶応2年(1866) | 長崎出張を命じられ、 後藤象二郎、坂本龍馬と面会。 その後上海へも渡米。 龍馬らとの出会いにより、 目標が攘夷から倒幕へと転換していく。 |
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慶応3年(1867) | 京都にて中岡慎太郎(土佐)、乾退助(土佐)、 小松帯刀(薩摩)、西郷隆盛(薩摩)らと 薩土の連盟を密約。同年、近江屋事件で 坂本龍馬と中岡慎太郎が暗殺される。 中岡から事件の詳細を聞き取る。 |
大政奉還 王政復古の大号令 |
明治元年(1868) |
戊辰戦争で板垣退助率いる迅衝隊の 大軍監として北関東・会津戦争で活躍。 |
五箇条の御誓文 |
明治3年(1870) | 高知藩小参事に任ぜられる。 | 大塩平八郎の乱 |
明治4年(1871) | 朝廷に招かれ兵部権大丞に任ぜられる。 | 廃藩置県 |
明治5年(1872) | 陸軍少佐に任ぜられる。 | |
明治6年(1873) | 熊本鎮台司令長官を仰せ付けられる。 | |
明治7年(1874) | 佐賀の乱を鎮定後、台湾へ出兵。 | |
明治8年(1875) | 熊本鎮台司令長官辞職。 | |
明治9年(1876) | 熊本鎮台司令長官再任。 | 神風連の乱 |
明治10年(1877) | 西郷軍を相手に熊本城を死守し、 政府軍の勝利に貢献。 |
西南戦争 |
明治17年(1884) | 学習院院長に就任。子爵を授けられる。 | |
明治18年(1885) | 第一次伊藤博文内閣の農商務大臣に任命される。 | |
明治19年(1886) | 欧米巡視に出発。 | |
明治20年(1887) | 条約改正に反対し農商務大臣を辞任。 | |
明治22年(1889) | 大日本帝国憲法発布 | |
明治23年(1890) | 貴族院子爵議員に当選。 | |
明治27年(1894) | 日清戦争 | |
明治28年(1895) | 下関条約調印 | |
明治30年(1897) | 足尾鉱毒事件につき善処を進言。 | |
明治37年(1904) | 日英同盟反対論・日露非戦論を主張。 | 日露戦争 |
明治42年(1909) | 妻・くま子没す。 | 伊藤博文暗殺 |
明治44年(1911) | 東京の自宅にて没す。 故郷高知の久万山に埋葬。 |