四万十川中流区域1


四万十川中流区域

24四万十川

四万十川
所在地/四万十町弘瀬〜十和川口
管理者/高知県
 四万十川は、幹川流路延長四国第1位、流域面積四国第2位の大河である。大正地区と十和地区では、穿入蛇行と呼ばれる激しく屈曲した流れを見せ、山間を流れる河川の中では勾配が非常に緩やかなのが特徴である。
 藩政期、土佐藩の仕置役であった小倉少助の進言により「輪伐法」という積極的な林業政策が展開された。山林の開発にあたっては河川が一番重要視され、四万十川は木材の搬出に大きな役割を果たした。そのため、藩は小倉四兵衛を奉行とし、幡多郡内の河川を管理している。
 木材の搬出に適した四万十川では、川舟を使った水運が発達した。センビ・高瀬船・センバ等の川船によって、木炭・梶・楮・蕨湖等の農林産物が上流域から河口の下田港へ搬出され、久礼や志和、佐賀港などに陸上げされた日用生活品も四万十川を通って山間の集落に運ばれた。四万十川は、その上流域と下流域、豊かな農林産物を産する四万十川奥地の山間とその消費地である京や大阪等の都市とを結ぶ流通・往来の大動脈であり、林業の繁栄に重要な存在であった。
 藩政期から昭和期にかけて行われた川舟による四万十川の流通・往来も、道路(国道381号線)の整備が進むと、荷馬車やトラックによる輸送が行われるようになり、昭和30年代には川舟は見られなくなった。
 四万十川は住民に洪水という苦難を与る。しかし、それを受け入れながら取り入れてきた農村集落の生活や、アユやウナギ、「トサシモツケ」、岸ツツジ等が生育する豊かな自然が残り、四季を感じ安らぎと感銘を与える存在であり、心の拠り所である。 四万十川は、自然の代名詞であるとともに、それを守りながら活用してきた、住民と自然の共生によって育まれた景観である。

24市ノ又渓谷風景林

市ノ又渓谷風景林
所在地/国有林4085、4086林班
管理者/四国森林管理局
  市ノ又渓谷風景林は、四万十川の支流、葛籠川(つづらがわ)の原流域の国有林「市ノ又山」にある。 樹齢200年をはるかに越えるヒノキ・モミ・ツガなどの巨樹が樹立している。その一部に遊歩道があり、豊かな大自然の姿を見ることができる。戦後の復興や日本の発展への木材の需要に対し、積極的な木材の供給に応えてきた国有林の一部である。

24奥大道自然観察教育林(日本最古の複層林)

奥大道自然観察教育林
所在地/国有林2057ほ・に小班
管理者/四国森林管理局
 奥大道自然観察教育林は、現在は国有林となっているが元は土佐藩の御留山で、日本で最も古い複層林である。御留山とは藩政期の藩有林、複層林とは成長期の違う大きな木と小さな木が同時に成育している森林である。
 土佐は山国で、長宗我部の時代から良質の木材の産地として知られている。藩政期、土佐藩の仕置役・小倉少助が進言した「輪伐法」という森林経営法が、家老・野中兼山によって積極的な林業政策として展開された。
 藩は、良材を産出する山林を藩有林の御留山として管理し、そこで生産される木材の販売を、藩の貴重な財源とした。また、材木を伐採した山には積極的に植林が行われ、森林資源の確保も図られた。
奥大道自然観察教育林も、四万十川流域の奥山の多くが御留山とされた1つで、文化8年(1811)にスギとヒノキが植林されたと伝わる。植林から120年余りたった昭和9年にその一部を伐採した後、改めてスギ500本、ヒノキ500本を植林し、旧藩造林を豊かな複層林にしている。奥大道自然観察教育林の景観は、藩政期から「輪伐法」という森林経営法と山村住民のたゆまない努力によって山林が守り育てられたことを理解するうえで、貴重な存在である。

24古屋山林木遺伝資源保存林

24梶ヶ谷林木遺伝資源保存林

古屋山林木遺伝資源保存林
所在地/国有林2060林班・2062林班
管理者/四国森林管理局
 古屋山林木遺伝資源保存林は、「大道松」と称した優良なアカマツの天然林である。「大道松」は枝下高が高く、樹幹、木理とともに通直で、形質が優れ、芯材は桧に似て色が淡く光沢があるのが特徴。大正13年から昭和30年頃まで伐木され阪神方面に送られた。その美しさから「大道松」と称され、あかまつ美林ともいわれた。
 また、梶ヶ谷山林木遺伝資源保存林は優良なモミを主体とした260年生の天然林で、ともに、日本の発展や戦後の復興への木材の需要に対し、積極的な木材の供給に応えてきた国有林の一部である。古屋山林木遺伝資源保存林と梶ヶ谷山林木遺伝資源保存林の景観は、四万十川流域の豊かな森林と、それによって支えられた日本の国有林事業の歴史を知ることができる貴重な存在である。

24向弘瀬橋

向弘瀬橋
所在地/四万十町弘瀬
管理者/四万十町
 四万十川は、弘瀬集落を分断する形で流れている。向弘瀬橋は、弘瀬集落の本村と対岸を1つの集落として結ぶ沈下橋である。
 この沈下橋が架けられるまで、弘瀬側と向弘瀬の井の谷口を結ぶ「ジョウホン渡し」と呼ばれる舟による渡し場があった。弘瀬側には夫婦岩と呼ばれる岩礁があり、増水して水位がこの岩を越えると渡しを中止したという。昭和38年、沈下橋の架橋により渡しは廃止された。
 沈下橋は、増水時に水中に潜ることを前提とし、欄干が無く橋脚が低いのが特徴である。上流には佐賀取水堰があり、普段の水量が少ないためにこの橋は特に低い。左岸側には河原へ降りるためのスロープが設けられ、夏は子供たちの川遊びの場であり、住民の営みと四万十川との繋がりを理解することのできる景観である。 右岸側の橋脚の一部は、以前、折れて修復したため、他の橋脚と形状が違っている。この橋は4t以下の車輌や人が通行でき、対岸の農地や集落内の往来に利用され、地域の生活を支えている。

架橋年度 昭和38年
路線名 町道弘瀬7号線
周辺環境 地勢:山地、水流:普通
通行 4トン車以下通行可
代替橋の有無
橋長・幅員 橋長62.1m・幅員2.5m
橋脚 本数:9本、構造:鉄筋コンクリート、形状:直方体
床版

厚さ:20cm、天端高:10cm、形状:直方体



24上宮橋

上宮橋
所在地/四万十町上宮
管理者/四万十町
 上宮橋は、四万十川の右岸の大正北ノ川集落と左岸の上宮集落を結ぶ沈下橋である。上宮地区へは、上舟戸、中舟戸、下舟戸と呼ばれる3ヶ所の渡し場があり、この場所に沈下橋が架けられるまで渡し舟が運航されていた。上宮集落の上流部に位置する針木地区にも渡しがあったが、これらの渡しは、橋の架橋とともに廃止されている。上宮橋の景観は、四万十川に沿って延びる国道381号線から望む場所にあり、四万十川とともに営みを続けてきた流域住民の文化を理解するうえで重要である。


架橋年度 昭和32年
路線名 町道北ノ川上宮線
周辺環境 地勢:山地、水流:普通
通行 大型車通行可
代替橋の有無
橋長・幅員 橋長85.1m・幅員2.9m
橋脚 本数:13本、構造:鉄筋コンクリート、形状:直方体
床版

厚さ:30cm、天端高:10cm、形状:直方体

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