四万十川中流区域

四万十川中流区域マップ



流通の大動脈であった四万十川とそれを支え活用してきた川沿い集落の景観地

 本区域は四万十川の中流域にあたる。四万十川本流のうち弘瀬から川平までの約49kmの区間、及びその河川から一番近い山の第一稜線までの区域を含む。
 四万十町内を流れる四万十川は、比較的開放感のある高南台地を穏やかに流れるが、本区域では、山地の間を大きくS字を連ねたように穿入蛇行を顕著に繰り返しながら流れる。四万十川の蛇行部内側の丘陵地や支流との合流点等に棚田状に開墾した農地とともに小集落が点在している。

 四万十川流域では林業の繁栄とともにその流れを利用した河川流通が発達したが、本区域は豊富な水量であったため、河川沿いの集落は四万十川の流通・往来を支える重要な役割を担ってきた。
 この集落のなかに、三島地区と小野地区がある。
 三島地区には四万十川最大の中州である三島がある。明治23年の洪水まで、この三島には三島神社が祀られていた。水運が活発に行われていた藩政期から昭和初期にかけては、水運の安全を守る神として流域の篤い信仰を集めていた。現在では昭和地区の旧役場横のシロトコに遷座されている。
 現在、三島はその左岸側に立地する轟集落の住民によって農地が耕作されている。夏場の水稲、冬場のナバナの栽培によって季節ごとに彩られる景観は、その生活を支える存在であると共に、四万十川を通行する人々の心に感銘を与える、価値のある存在である。

 一方、小野地区は、四万十川の河岸段丘上に中流域では稀な規模の耕地を有し、その小高い丘上に民家や社寺が展開した、農業を生業とする集落である。
 この農地は、第二次大戦前後に行われた灌漑工事によるもので、それまでは丘上の地形で水利が悪く水田が少ないため、農業を主体としながらも副業に生業を行わなければならなかった。その生業が筏師と紙漉きであった。
 明治から昭和初期にかけて四万十川奥地から伐採された木材は軌道や木馬、人力で梼原川や北の川、久保川などの支流へ運ばれ、そこから四万十川本流へと堰出しや管流しで流送され、筏に組まれて下流の下田へ運ばれた。小野地区対岸の久保川口はこれらの木材の集積地であり、そこから、小野では農業の傍ら筏師を生業とする人々が現れ、周辺を含めると最盛期には60人〜70人を数える筏師に成長した。

 また、十川には四万十川流域の林産物を一手に扱う商人がおり、そこを拠点に四万十川の水運を使って下田港へ移出されたが、その中に楮を原料とした仙花紙と呼ばれる和紙があり、小野周辺では旧くから農閑期や四万十川の渇水期に晒の工程で四万十川を利用して仙花紙漉きが行われていた。
 その後、仙花紙漉きは大量生産の紙に押されて途絶えていたが、旧くからの伝統技術が蘇り、小野や大井川で再開されており、和紙の世界でも始期が明確な和紙として知られている存在である。

 四万十川流域から見た場合、本区域は四万十川を介して行われた河川流通の形成を支え、またその流通に生業として関わった人々が暮らした地域である。また河川が形成した中州である三島は、水運という生業が関わるなかで信仰対象となってきた場で、現在でも中州での耕作という独特の土地利用が行われており、これらは四万十川流域の文化的景観を理解する上で欠くことのできない景観地である。

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