本文
大正奥四万十区域3
町道下津井線
所在地/下道29−4 先〜
下津井534−7 先
管理者/四万十町
町道下津井線は、国道439 号線と下津井地区の集落内を結ぶ道であり、また、大道を経由して十川(旧十和村)に至る町道下津井十和線にも通じている。
四万十川流域は、藩政期の御留山を引き継いだ国有林事業によって繁栄した地域であるとともに、炭、梶・楮・三椏の製紙材料、蕨粉、仙花紙、シズラ(蕨根の芯の繊維)などの産地で、下津井地区もその1つであった。
これらの林産物は、主に十川を経由して下田や伊予方面に搬出されたが、それには、梼原川を使った水運のほかに、町道下津井十和線が通る下藤蔵越えの陸路も利用されていた。
梼原川や四万十川に沿って道路の整備が進むとともに、町道下津井線を通り下藤蔵を越えて十川方面との往来は少なくなった。しかし、本町道は、地域住民が農地や森林、集落内外との往来に利用し、生活・生業を支える重要な存在である。
町道大奈路中津川線
町道久木ノ森線
所在地/大正大奈路16先〜
大正中津川610−6先
管理者/四万十町
所在地/大正中津川766−41先
大正中津川766−9先
管理者/四万十町
町道大奈路中津川線は、四万十川水系における最初の森林軌道であった。明治34年から小松尾山の立木処分で年期売払を受けた民間業者によって、大正中津川から大正大奈路までの18kmに林道を整備し軌道を敷設したものである。また、町道久木ノ森線も、その町道大奈路下道線の一部であったが、改良工事に伴うトンネルの開通によって新たに路線として認定されたものである。これらの町道は、梼原川の支流の中津川に沿って緩やかな勾配で延びており、その名残を伝えている。
森林軌道は、大正14年に営林署に買い上げられた後、役目を終えて軌道が廃止され、林道としての改修を経て町道に引き継がれた。この森林軌道の敷設や林道の整備によって、木材の大量搬出が可能となり、国有林事業が大きく発展した。
町道は、現在も国有林や民有林からの木材の搬出や森林管理に利用されるとともに、大正大奈路と大正中津川を結ぶ主要な道であり、住民の生活・生業を支えるうえで必要不可欠な存在である。
河内神社
所在地/大正中津川
管理者/集落
河内神社は、中津川本村対岸の小高い丘に鎮座する。急傾斜の石段の参道を登る丘の頂上に社殿がある。もとは下流のサワタリという場所にあったというが、明治23年の洪水で社殿を流失し、現在の社殿は昭和31年に再建したもの。耕地の少ない山村集落では、棚田が生活・生業を支える糧であり、棚田を開墾・管理と生産には多大な知恵と労力が必要である。その過酷な条件が、耕作の安全や豊穣を祈る信仰、祭事など、農耕における様々な伝統文化を育んできた。その中心的な役割を果たしているのが河内神社である。河内神社は、家内安全や五穀豊穣のほか、住民の交流や地域文化を醸成する場であり、祭事を通じて地域の連帯を深め、憩う場所である。また、戦争の出征に際しては武運長久を祈願し、南米への移住では見知らぬ土地での安全を祈って旅立った。山村に暮らす過酷な生活・生業のなかにあって、四季折々、神に祈りを捧げる人々の篤い信仰は、自然がもたらす恵みへの感謝とともに自然と共生していく意思を表す場所である。
中津川の茶堂
所在地/大正中津川
管理者/集落
茶堂は、サワタリ沈下橋が架かる中津川右岸、中津川本村の対岸にある。慶長2年の地検帳にもみえ、敷地面積や配置も古い時代のままである。現在はトタン葺きであるが、昔は茅で葺かれていた。対岸に町道が整備されるまで、茶堂の位置する場所は集落の入り口にあたり、大奈路・木屋ヶ内・下津井・梼原への街道へ通じる往還に通じていた。茶堂には弘法大師像が祀られ、旧中津川小学校の裏手にあったという寺地蔵院も合祀されている。かつて、各集落の入り口には茶堂が建てられ、地域の人々の信仰と交流の場となっていた。また、茶堂は外来の商人や旅人が自由に休憩、宿泊できる場所であり、集落を通行する旅人を接待し、異文化との交流や情報を得る場所としても利用された。3方を開放した建築様式は、外来者の行動を監視するためともいわれ、藩政期、地域外からの旅人を接待しつつ、一方で監視する厳しさが想像できる。茶堂では、今も先祖供養や御接待などが行われ、住民の交流を深める場である。茶堂は、中津川集落における流通・往来と信仰と交流の歴史を物語る景観である。
建築年代 |
明治〜大正期 |
施工 |
木造・平屋建・切妻造・トタン葺 |
桁行・梁間 |
桁行3間・梁間2間 |
久木ノ森山風景林(2001年の森)
所在地/大正中津川
管理者/集落
久木ノ森山風景林は中津川の渓谷沿いに約16万㎡の面積を持つ。良材の宝庫で知られた地域を伝える、多様な天然木で構成された貴重な森林域である。大正奥地中津川には広大な御留山が広がり、住民の管理・伐採・搬出という役目のもとで、良材が梼原川・四万十川の水運を利用して京阪神へ移出され、藩の林業政策を支えた。明治以降、御留山は国有林に引き継がれ、四万十川流域の林業の歴史を繋いできたが、久木ノ森山風景林もその1つである。平成13年に、この森林を旧大正町が「2001年の森」として購入。「2001年の森設置条例」を制定し、自然環境の保全、水資源の涵養など森林のもつ公益機能の啓発を図るとともに、人々の憩いの場として位置づけた。桧の高齢木・複層林・混合林のモデル林として保護・育成するとともに、町の活性に結びつけようと、風景林では「ビンビ祭り」や「もみじ祭り」等の交流事業が催され、渓谷でのキャンプや川遊びが楽しめる。「久木の名水」が沸く森でもある。久木ノ森山風景林は、四万十川流域の林業の歴史や森林の持つ価値を身近に学び体感できる存在であり、未来に伝えるべき重要な景観である。
位置 |
高知県高岡郡四万十町 |
面積 |
160000平方メートル |
大正中津川集落(本村・森ヶ内)
所在地/大正中津川
管理者/四万十町
中津川集落は、梼原川の支流である中津川の上流山間部に位置する。現在は、地区中心部の「本村」と北部上流域の「森ヶ内」のふたつの集落で構成されているが、かつては、成川谷に「成川」集落も存在した。本村は、中津川右岸の東西120m・南北350mのオオギノヒラ山麓の河岸段丘に展開する里山の集落で、急峻な山々に囲まれた河岸段丘上に開墾した水田や山肌を切り開いた畑地で農業が営まれている。森ヶ内は中津川最奥の集落で、7戸の民家が山間に点在している。慶長2年(1597)の上山郷地検帳にみえる森河内村の検地面積は一町八反余、切畑若干が記載されている。急峻な山肌に開拓された棚田や畑が深山と密接した暮らしぶりを示す。長宗我部の時代から土佐の木材は良材とされ、藩政期、土佐藩は多くの山々を御留山とし積極的な林業政策を展開した。旧大正町内には21か村が存在していたが、そのうちで御留山が存在しないのは4か村のみで、いかに、この地域が良材の宝庫であったかが理解できる。中津川集落も、御留山が広範囲に存在した地域で、「皆在村東採伐禁止」として小松山・成川山他の山名が記されている。藩政期には林業政策による御留山の管理・伐採・運搬などを課し、「山林諸木竝竹定」などの布告で厳しい統制令が布かれ、私有林の伐採や焼畑も制限されるなど、中津川集落も山林を守る藩の施策のもとで厳しい統制を強いられた。まとまった平地が少なく、棚田や段々畑、焼畑による自給自足的な農業が主体であり、林産物生産が重要な生活基盤であった山村集落において、これらの、住民の自由な山野利用や木材の伐採を厳しく禁じた措置は非常に過酷なものであった。そのような苦難のなかで、中津川住民は御留山をはじめとする森林を管理し、良材の産地を育ててきた。この厳しい生活の様子は、この集落から旧大正町田野々(四万十町大正)に移築された国重要文化財・旧竹内家住宅に見ることができる。御留山は、明治時代に入り「官林」となり、その後の変遷を経て今日の「国有林」に引き継がれている。中津川集落では、厳しい風土のなかで開墾した棚田等での農業が受け継がれ、先人からの営みが続けられている。また、林業を生業とする者も多く、「四万十桧」を産出して積極的な林業を展開し、四万十川の清流の源である森林の保全という重要な役割を果たしている地域である。