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四万十川流域の文化的景観(大正奥四万十区域) 2
7 旧大正林道ユス谷川橋
9 ユス谷川橋
所在地 | 四万十町江師 |
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管理者 | 四万十町 |
ユス谷川は、四万十川支流梼原川に注ぎ込む谷川で、工法が異なる2つの時代の橋が架かっている。一つは、町道から見過ごしてしまう位置にあるが、旧国道439号線に平行して架橋されていた森林鉄道橋である。この橋は、昭和初期に旧大正林道の橋梁として建造されたもので、連日、機関車に引かれ木材を満載したトロッコがこの橋を通行し、四万十川流域で活発に展開された国有林事業を支えた。もう一つは、昭和10年頃に郡道松原線旧大正~梼原間の橋梁として建造され、国道439号線に引き継がれた国道橋である。現在は、国道の改良工事でルートが変更され、町道となっている。この2つの橋は、四万十川流域の奥山から産出される農林産物の搬出をはじめ、上・下流域の集落間の流通・往来に大きな役割を果たし、近代期の山村地域の発展を支えた。また、素材、工法、目的の違う二つの橋は、河川を使った筏流しや高瀬舟から森林鉄道、その後のトラックの輸送へと、四万十川流域における流通・往来の歴史とその変遷を今に伝える貴重な存在である。
8 旧大正林道西ノ川1号橋
所在地 | 大正大奈路 |
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管理者 | 四万十町 |
旧大正林道西ノ川1号橋は、昭和7年頃、字上駄場の上流地点に大正営林署によって旧大正林道(森林鉄道)の橋梁として建設されたものである。下津井の国有林から梼原川の右岸を走ってきた森林軌道は、ここで梼原川を左岸に渡る。連日、機関車に牽引されたトロッコがこの橋の上を通り田野々貯木場に向かった。かつて、大奈路には「舟戸の渡し」があった。これは、大奈路以北の集落や津野山越えの「やたて街道」と呼ばれる主要街道や対岸の西ノ川へ通じる渡し場であった。昭和19年に津賀ダムが竣工するまでは、梼原川の水量は多く、舟による渡しは住民の生活に欠かせないものであったが、橋の完成とともに渡し場は廃止されている。この橋は、昭和41年頃まで森林軌道として利用され、廃止後は梼原川の両岸を結ぶ町道となっている。近代期の四万十川流域の林業の歴史と繁栄を伝える存在である。
10 旧大正林道木屋ヶ内トンネル
所在地 | 木屋ヶ内 |
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管理者 | 四万十町 |
木屋ヶ内トンネルは、梼原川右岸の河岸段丘上の小山を貫いて掘られた、旧大正林道(森林鉄道)の一部である。トンネルは、梼原川が大きく蛇行する木屋ケ内橋から約150mの位置にあり、昭和19年頃に建設された。半島状の突き出た場所を、距離の短縮と緩やかな曲線の経路を保ちながら下流に抜けている。このトンネルを通り、連日、機関車に引かれ木材を満載したトロッコが運行され、四万十川流域で活発に展開された国有林事業を支えた。四万十川流域の近代期の林業とその搬出の歴史を伝える構造物である。トンネルは、軌道が廃止され枕木、レールが除かれた後、舗装、電灯設置、水道管が布設され、町道として付近住民の生活を支えている。
開通年度 | 昭和10年頃 |
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施工 | 鉄筋コンクリート造 |
長さ・幅 | 長58m・幅2.6m・切通し幅3m(東西とも) |
11 旧竹内家住宅
所在地 | 四万十町大正 |
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管理者 | 四万十町 |
概要
旧竹内家住宅は、旧大正町中津川森ヶ内に建てられていた山村民家である。昭和45年度から高知県内全域にわたって行われた古民家の実態調査で、土佐山村での建築年代・様式・意匠などの点で最も優れたものとして、昭和47年5 月に国の重要文化財に指定された。旧大正町が譲渡を受けて現在の場所に移築され、山村の暮らしを学ぶ公開の場として、広く活用されている。
旧竹内家住宅の建築年代については2 説ある。約280 年前という説(1720年頃)では、享保12 年、高知の大火災以後、草壁民家が御法度となったことから、草壁の竹内家住宅は1720年以前に建てられたと推察されるという説。約230 年前という説では、「明治の初めにこの家の100年祭をおこなった。」という古老の言い伝えがある。建築の構造から推察すると旧竹内家の建築年代は18 世紀末頃と推定されている。
大正町史によると、藩政期の農民や間人の住居は多くが掘建て式の茅葺きの住居で、農民や間人はひさしや畳敷を許されず、床板の代わりに小竹をスノコに編んで並べ、藁筵や萱筵を敷いたとある。冬季には積雪を見る気候の地で、非常に厳しい生活を強いられた様子が容易に想像される。中津川集落は、明治から昭和期にかけて国有林事業で活況を呈した良材の宝庫であった。 しかし、周囲を御留山に囲まれ、藩の林業政策によって御留木のマツ・スギ・ヒノキ・モミ・ツガ等21種の伐採を禁じられ、建築用材にも厳しい制限を受けた地域であったため、シイ・栗・桑などの雑木を建築材としている。旧竹内家住宅は、様々な規制を受けた藩政期の土佐山間部の建築様式をよく残し、山村集落における民家の暮らしぶりを今に伝えている。
建物の特徴
旧竹内家住宅の建物の規模は小さいが木割りは太く、藩政期の山村農家として中型層の家であったと思われる。屋根は茅葺き(かやふき)で壁は茅壁(かやかべ)、壁には一切壁土を使用していない。間取りは「ざしき」「茶の間」「土間」が一列に並ぶ形、土佐の山間によく見られる形式で構成されている。桑の木の柱が3 本使用され、「おきのま」の床は竹が敷かれている。竹内家住宅では軸組みと「なかじ」の工法が特徴的である。「なかじ」と呼ばれる特徴的な部材1本で、桁行きが堅くつながれている。「なかじ」は土佐山間地方の古民家に見られる特有のもので、旧本川村の国指定の重要文化財山中家住宅にも見られる手法である。竹内家住宅の「なかじ」は約10.6mの長さを持つ。このような一列型平面は四国中央山地や九州地方の急峻な地形の山村に多く見られる。構造は上屋と三方の下屋からなるが、下屋の幅は狭く0.5m~0.6mであり、梁組は簡素である。梁上桁行きには棟通りに太く扁平な材が上屋の端から端まで通っている。旧竹内家住宅は藩政期の当地方の山村民家建築として貴重な建物である。
12 国道439号線
所在地 | 梼原川境~国道381号線まで |
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管理者 | 高知県 |
国道439号線は、四万十市と徳島市を結ぶ四国では342.4kmの最長路線の国道で、四万十町内では梼原川に沿って延びている。藩政時代に上山郷の中心地であった四万十町大正(旧大正町田野々)と奥四万十区域(梼原川流域)を結ぶ幹線道であり、津野山と呼ばれた梼原町や津野町にも通じている。群道松原線として整備が始まり、大正11年の群制廃止により県道となり、その後、国道に昇格した。
梼原川上流域や津野山地方との往来には、「やたて街道」が利用されたが、尾根越えの山道で通行は困難を伴った。そのため、梼原川を利用した舟の流通が盛んに行われた。しかし、道路の整備が進むとともに荷馬車やトラック等による陸上輸送が発達し、筏流しや高瀬舟等による河川流通は衰退した。 国道439号線は、梼原川流域で生産される木材の搬出や森林の管理等に利用する産業道であるとともに、梼原川上下流域を結ぶ主要道であり、住民の生活・生業に不可欠な存在となっている。
13 町道大奈路下道線
14 町道下道下津井線
所在地 | 西ノ川319―7先~国有林4074林班先 |
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所在地 | 下道29-4先~町下津井534-7先 |
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管理者 | 四万十町 |
梼原川に沿って、対岸の国道439号線と平行して延びる町道大奈路下道線と下道下津井線は、ともに旧大正林道(森林軌道)の一部で、樅・栂の原生美林で知られた下津井佐川山の国有林から大正町田野々貯木場を結ぶ23kmの森林軌道として建設されたものである。搬出路の途中には坂島山、赤良木山などの国有林があり事業所も開設されていた。四万十川流域の林業活動は、明治期から昭和期にかけて、大正町田野々(現在の四万十町大正)以奥の梼原川流域で国有林を中心に活発に行われた。これは、この地域が幡多地方にあって藩政期の御留山を基盤とする国有林が最も集中していたことに加え、四万十川と梼原川が合流する地形で下田港へ水運による伐木の大量搬出に適していたことによる。
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